鈴木あい子写真展ができるまで

鈴木あい子 写真展「いまはもうないことすべて」

 

2012年 11月6日(火)~11月11日(日) NADAR/OSAKA(ソラリス前身)にて

工程表作りや、作品のセレクト、プレスリリース、DM制作といった
約1年の準備期間を経て、開催した初個展。

まずはギャラリーから見た展示構成のポイントと、
鈴木さんに会期中感じたことを伺いました。

 展示構成のポイント

ギャラリーに写真を見に来られるお客さんは、時計回りで見る方、反時計回りで見る方、全体を引いて見る方などそれぞれいる。しかし今回の写真展では、意図した配列順(時計回り)に沿って見てもらいたかったため、入口すぐの左の壁に「ステートメント」を設置し、自然とその壁から時計回りで見てもらえるよう導線を引いた。

 

また、ギャラリーに訪れたお客さんの眼に最初に飛び込む正面の壁に、DM表紙にも使用したメインイメージを含む大きい作品を3点、正面の壁以外に小さい作品を10点並べた。作品の間隔も、流れを意識しやすくなるよう狭めにしている。

準備期間約1年
お申込時期約1年前
作品モノクロ暗室にてプリント
DMギャラリーに依頼し、1,000部制作。うち約900部はギャラリーが関係各所に配布
予算作品制作費+会場費+DM代+作品輸送費
そのほか名刺、ポートフォリオを持参し、会場に設置
搬入・搬出搬入は事前に宅配。展示は搬入日に自身とギャラリースタッフにて仕上げた(約3時間)。搬出は最終日当日に約30分。

 鈴木さんが写真展の会期中に感じたこと

会期中は、お客様とお話しをするなかで様々な意見を聞くことができ楽しかったです。皆さんが、想像していたよりもじっくり作品を見てくださることにも、驚きました。

 

技術面を含め、いろいろなコメントを頂いたのですが、展示するってこういうことなのかぁ、と感じました。どれが正しいかとか、そうじゃないんですとかじゃなくて、全部嬉しかったです。なんというか、個として認められたようで。「あなたはこういうことを見てるんだね」って。

 

それから、プリントが綺麗とか、丁寧とか、そういうことを褒めてもらったことで、うれしい思いもありましたが、自分はもっと混沌としていたはずだったかなと、きれいにまとめすぎてしまったのかも。という気持ちもあって。だから終わって最初に思ったのは、もっとぐちゃぐちゃで混沌とした内面の、もっと意味のわからない自分のことも、いつか作品にしてみたいなぁということでした。

 

実は、写真展が終わったら展示写真は燃やそうと思っていたんです。DMの表紙にもなった「とんど」という神事で燃やして、天に返すような気持ちでいました。でも、展示期間中自分の写真を見ながら、新しいことに気づいたり、違った風に感じるときがあって。この先何十年後かにまた写真を見た時、今とは違う感情が湧いたり、違うものに見える可能性があるなら、写真展はまだ完結じゃないのかもしれないと思いなおして、燃やさないで置いてあります。

 

沢山の人の目に触れる、写真展という試み自体が、そういった儀式の代わりになったのかもしれません。

howto_suzuki_self

 鈴木あい子写真展ができるまで

モノクロ暗室で自分の手でプリントをするようになって、約3年弱。

広島にお住まいの鈴木さんが大阪で個展を開催したきっかけとは??

写真との出会いから、初個展開催に至るまでの実作業と心のなか、

そしてこれからのお話を鈴木さんに伺いました。

はじまり

 

ロモが流行った時期に、好きに撮って楽しんでいたのが写真のはじまりなんです。そのうちに縁あってミノルタの一眼レフのカメラを譲り受けて、今もそのカメラをメインに使っています。当時は露出とか基礎知識がなかったので、なかなかうまく使いこなせませんでしたが…。

 

その後、ポラロイドカメラを買ってからは、ホームページに写真をアップしたり、写真を人に見せるようになりました。ポラは一枚しかないじゃないですか。いいのが撮れても、そうでなくてもその一枚で、あとの焼き方で色が変わるとかないし、4gの物質、それがとても魅力的で。

 

でも、写真を好きになるにつれて、詳しい知識がないまま、なんとなく撮ってきていることに、引け目というか、手ごたえがないなあと感じることが増えてきたんです。それで、もっと写真のことについて知りたいな、現像からプリントまで全部自分の手でする経験をしたい!と思って、ナダール大阪(ソラリス前身)のモノクロ教室に通いはじめました(2010年1月頃)。

モノクロとの出会い

 

モノクロを撮り始めるまでは「淡いような、掴みどころのない写真」が自分の撮る写真だと思っていたので、モノクロで自分らしいってどんなんだろうと思っていたのですが、撮り始めてみると、気になる被写体はなぜか全然これまでと違う、暗いとか、悲しいとか、ドロドロしたようなもので…。

 

モノクロは心象というか「自分自身」なんじゃないかと、その変化に驚きました。だからギリギリまで教室の修了展(教室が終わった後の展示)に出す写真を悩んだんです。「わたし、こういう感じなんですけど大丈夫ですか?」って(笑)。

 

私にとってのモノクロには、自分をそのまま出す作業という感じがあったんです。だから、理解されなくてもいいけど、誤解されたくない。と言う気持ちがありました。で、いろいろ考えた結果、修了展には「こういうのいいでしょ」という写真ではなくて「いいのかわからないけど、私って、こんななんです」という写真を出すことにしたんです。それで誰か一人でも足を止めて貰えたら、それが手ごたえにつながるんじゃないかと思って。修了展で展示した作品には、実際にいいねって言ってくれる方がいてとても嬉しく思いました。

 

修了展から今まで、作品作りはすべて広島の「エディション写真教室」というところで行っています。そこには修了展の作品を焼くことを目的に通っていたのですが、展示が終わってすぐ、先生の高田トシアキさんに「おつかれさま、じゃあ次も焼いてね」と言われて。えっ!私はまだ焼くんだ!?続けていいんだ!と(笑)。

個展したいな

 

モノクロ教室の修了展のときに、DMを出したんですけど、自分の名前だけのDMだったら素敵だろうなぁって、すでに思っていました(笑)。自分の写真だけが四方に並んでる真ん中で深呼吸とかしたら気持ちいいんだろうなぁって想像をふくらませていました。すごい自分好きみたいですね(笑)。

 

その時はまだテーマとか、見せたい何かが決まっていたわけではなかったんですが、ある日、今までバラバラに撮ってた写真が内包されるようなテーマが自分の中にあらわれたんです。それが「いまはもうないことすべて」というタイトルに繋がるんですけど、まとめて誰かに見てもらいたい、これが個展をする写真なのかなと思って、ばーっとブックにまとめて、それが出来た日に個展の予約申込みをしました。(2011年12月頃)。

工程表のススメ

 

個展の予約をしてから1か月後に「とんど」という火祭りの写真を撮ったんですけど、「これは展示に入れたいな」と思ったんです。こういう気持ちになる儀式的なモチーフや、そういう写真を撮りたいなと。

 

広島の高田先生からは「個展するなら工程表を作ってね」とアドバイスをもらいました。それでまず、きっかけになったばーっとまとめたブックを元に、それにどんなモチーフが加わったら、より自分の伝えたいことに近づくかを考えて、「撮りたいもの」「場所の洗い出し」と、「暗室に入る日」を書き込んでいきました。

 

いま思えば高田先生の言った工程表って、何月中にバライタを焼いて、いつまでにマットを準備して…くらいのことだったんだと思うんですけど(笑)。具体的にスケジュールを立ててみることで、先の個展に実感が伴ったような気がします。

*実際に鈴木さんが準備した工程表。マウスオーバーで拡大します。

2つのファイル

 

そうやって撮り集めた写真を、「個展に入れたいファイル」と「ちょっと考えてみようファイル」の2つに分けて保管していました。「デッド・ファイル」と「アライブ・ファイル」と呼んでたんですけど(笑)。

 

これが入ったらあざといかな?というのは混ぜないでおこうとか考えながら分けていました。あざとさっていうのは…どや!的というか、こんなの撮れるんです的な写真のことで、写真の良さよりも、気持ちを大事に選んでいったような感じでした。

焼きはじめ〜暗室作業

 

会場構成は枚数も含めて最初はぼんやりしていたんですが、必ず展示に入れたいと思うアライブ・ファイルの写真から、まずは焼き始めました。展示する順番は9月ごろ、よし決める!と思ったタイミングで、バーッと並べて決めました。実際に本番の写真を焼き始めたのは、夏くらいからです。

 

ちょうど焼きはじめの日にFUJIのバライタ印画紙が生産終了のニュースがあったんです。それもあって、より丁寧に焼こうと思ったんですが、うまくいかない日も多くて。フィルムのホコリが気になって、何枚かはフィルムを洗いなおすことから始めました。

 

スポッティングは終わりがよくわからなくて、今でもすごい苦手なんですけど…。時間をかけて、やれるだけやって。ずっとやっていると自分が粒子になったような、スポッティング・ハイになりました(笑)。

 

それから、額にガラスがあると映り込んで見難いかなと気になったのですが。個人的に、ガラスがある封じ込めている感というか、一枚間にある感じが好きで、今回の展示にもあうんじゃないかと思っていたんです。ガラス有りだと郵送の時も心配だったんですけど、楽さじゃなくて、自分は何がしたいのかを大事にしようと考えて決めました。自分のことだから、妥協しないでやりたいことをしてみよう、と思って。

プレスリリースとDM

 

ステートメントは自分の言葉そのままだったのですが、プレスリリースはすごく悩みました!テーマは決まっていたんですけど、それをわかりやすく伝えようとすると、客観的に書くのがすごく難しかったです。詳しく書くと野暮になっちゃう気もして、ぼやかしたいという気持ちもあって。最終的にはギャラリー側でチェックをしていただいて、客観的なアドバイスをもらって決めました。

 

あと、プレスにあたって、メインイメージを3枚決めたんですが、アライブ・ファイルの写真を冷静に見ていった時に、この1枚がDMだったら伝わり切らない、これだけだと廃墟写真展みたいに見えるかなとか、どんな展覧会に見えるかというのを考えながらメインイメージを探していったら、自然と、この3枚をまとめて見せたいという気持ちになりました。

 

最初は13枚くらいしかない展示写真のうち、3枚も見せるのってどうなんじゃろって思ったんですけど。でも、3枚セットではじめて、展示のイメージを伝えられると思ったので、DMもギャラリー側と相談して、3枚が載る、めくって進むような作りになりました。

作品郵送にあたって

 

ガラス入りフレームの作品をどうやって広島から大阪へ運ぶかも悩みました。私、車の運転ができないので、郵送するにあたって、しっかりした梱包方法を運送業者の人や近所の額屋さんに教えてもらいました。

 

4箱にまとめたんですが、3つは近所の額屋さんにちょうどいいサイズのダンボールを頂いて、1つは、「はこつくーる」という少量オーダーメイドの段ボール箱専門店で、ジャストサイズの箱をつくってもらいました。

搬入

 

並び方については、花火の写真が全体のピークだなぁと思っていて、それを中心に遠近というか緩急というか、遠く近く遠く近く、と流れを考えていきました。

 

最初は「自分の姿がうつり込んでいる写真で始まって、同じパターンの写真で終わる」というのをイメージしていたんですが、搬入の時、全部飾り終わったのを見て、最後の写真は自分じゃなく、外に開く形のほうが気持ちいいなぁと思ってその場で変更しました。

 

搬入直後は手応えがわからないというか、準備した分、自分が思っていたまんまにはなったけど、それがいいことなのかどうか判断できないまま、ひとまず広島に帰りました。

写真展の会期中に感じたこと

 

会期中は、お客様とお話しをするなかで様々な意見を聞くことができ楽しかったです。皆さんが、想像していたよりもじっくり作品を見てくださることにも、驚きました。

 

技術面を含め、いろいろなコメントを頂いたのですが、展示するってこういうことなのかぁ、と感じました。どれが正しいかとか、そうじゃないんですとかじゃなくて、全部嬉しかったです。なんというか、個として認められたようで。「あなたはこういうことを見てるんだね」って。

 

それから、プリントが綺麗とか、丁寧とか、そういうことを褒めてもらったことで、うれしい思いもありましたが、自分はもっと混沌としていたはずだったかなと、きれいにまとめすぎてしまったのかも。という気持ちもあって。だから終わって最初に思ったのは、もっとぐちゃぐちゃで混沌とした内面の、もっと意味のわからない自分のことも、いつか作品にしてみたいなぁということでした。

 

実は、写真展が終わったら展示写真は燃やそうと思っていたんです。DMの表紙にもなった「とんど」という神事で燃やして、天に返すような気持ちでいました。でも、展示期間中自分の写真を見ながら、新しいことに気づいたり、違った風に感じるときがあって。この先何十年後かにまた写真を見た時、今とは違う感情が湧いたり、違うものに見える可能性があるなら、写真展はまだ完結じゃないのかもしれないと思いなおして、燃やさないで置いてあります。

 

沢山の人の目に触れる、写真展という試み自体が、そういった儀式の代わりになったのかもしれません。

これから

 

ずっと、つかみどころがないまま心に留まっていたテーマを、写真展として一つの形にまとめられたことで、感情を置いていくことが出来たというか、気持ちが楽になりました。

 

撮る写真も個展以降、少し変わってきました。今はまだ新しいテーマに沿って撮っているわけではないけど、バラバラにある写真が、また何かのきっかけでひとつにつながるんじゃないかな、と思っていて。

 

今はそれが楽しみです。

*本記事は、NADAR/OSAKA(ソラリス前身)の記事を増補したものです。
(2013/4/20・聞き手 橋本大和)